航海には凪もあれば荒波もある |
それにしてもダイヤモンドプリンセス号は災難に見舞われる船だ。
何と言っても建造中の2002年に溶接の熱が原因で火災が発生。
約36時間燃え続け、船体床面積の約4割(5万㎡)を焼損したのは記憶に新しい。
(但し焼損した船は現在サファイアプリンセス号となり、当時建造中だったサファイアプリンセス号が名前を変更して、現在のダイヤモンドプリンセス号となっている。)
さて現在、日本近海にはさらに4隻のクルーズ船がいる。
2月中に日本に寄港する予定だが、船舶から感染者の疑いが出た場合は、政府は入港拒否の措置を行う方針だという。
このニュースを聞いた時、だいきちは中学の頃学んだ日本史を思い出した。
異国船打払令である。
幕府は文政8年(1825年)、交易の窓口以外の外国船を見つけた場合、見つけ次第追い返すという厳しい命令を下した。
命令の目的は幕府による交易の独占体制を守ることと、キリスト教の侵入の防止だと言われている。
だいきちは、この命令が出たもう一つの背景として、その3年前の文政5年(1822年)に長崎で発生したコレラの大流行があったのではないかとにらんでいる。
18世紀以来、オランダ東インド会社の支配下に置かれていたジャワ島では度々コレラが流行していた。
そして、日本初の大流行は長崎とジャワ島を往復する1隻のオランダ船からもたらされたものだった。
長崎は当時の日本において外国人と貿易取引を行う唯一の港。
コレラは長崎でまず流行し、次第に九州に広がり、次いで中国・近畿・東海あたりにまで拡がっていった。
死者は十数万人におよんだという。
この疫病が外国船よりもたらされたことは、当時の幕府も薄々気が付いていたのだろう。
清国やオランダの商船が長崎に入港する度に、何らかの疫病が発生したことが恐らく度々あったはずで、さすがの幕府もコレラの大流行で恐れをなしたに違いない。
外国船よりもたらされる疫病が日本中に広がることを恐れるあまり、いかなる理由においても打ち払えということに繋がったのではないか。
時代は下るが安政5年(1858年)に書かれた『古谷道庵日乗』には「コレラ流行は異人が毒を流し魚を食し人に伝わるという。」という一文がある。
当時の庶民も経験的に、疫病と外国船には何らかの関連があると考えていた証左だ。
さて、現代のクルーズ船はこれからいかなる扱いになるのだろうか。
江戸の異国船打払令はその後、薪水給与令に改められたが、令和の対応はいかばかりか。
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