福岡空港を降り立ち、その足で大分県の日田に向かう。
福岡から日田まではずいぶん遠いイメージがあるが、現在では高速道路も整備され、車で1時間もあれば到着だ。
豆田町
豆田町は慶長6年(1601年)小川氏の城下町として整備された。その後は天領となり、経済・文化の中心として発展し現在に至る。
碁盤の目状の町割りには旧家が数多く残っており、往時の姿をよく伝えている。
碁盤の目状の町割りには旧家が数多く残っており、往時の姿をよく伝えている。
石畳が美しい |
ここを訪れた日は寒い冬の平日で閑散期の最たるものだったが、観光客はそれなりに訪れており各店もほとんどが営業している。
全国に「小京都」と称する街は多いが日田の豆田ほど落ち着きがあり、かつ、しっかりと経済活動が行われている所は少ないのではなかろうか。
大分には別府や杵築、豊後高田に湯布院それに黒川温泉と、センスが良く栄えている街が多いことは注目に値する。後述する咸宜園を育んだように、文を重んじる伝統の業なのだろうか。
内部は懐かしい昭和の歯医者 |
咸宜園
儒学者、広瀬淡窓によって創設された咸宜園。
広瀬淡窓は今でも日田の人々の尊敬の対象で、子供の頃からその人となりを学校で学び、市民からは広く「淡窓先生」と呼ばれている。
広瀬淡窓は今でも日田の人々の尊敬の対象で、子供の頃からその人となりを学校で学び、市民からは広く「淡窓先生」と呼ばれている。
1805年(文化2年)から1897年(明治30年)まで92年間続いた全寮制の私塾で、身分・出身・年齢を問わず、学ぶ気のある者なら誰でも入塾出来た。
高野長英や大村益次郎もここで学んだ |
講義内容は儒学、四書五経が主だが、おそらく長崎帰りの者が講義を行ったのだろうが、医学や数学、天文学などを幅広く学ぶことが出来たという。
門下生は4800名を数え、高野長英、大村益次郎、上野彦馬、清浦奎吾など多数の有為の人材を輩出している。
咸宜園の秋風庵の中の掛け軸に国別入門者数が掲げられている。
これを見ると日田からの遠近の違いはあるものの、どの地域が経済的に豊かで、どの地域が文または武を重んじていたのかが透けて見えてきて面白い。
これを見ると日田からの遠近の違いはあるものの、どの地域が経済的に豊かで、どの地域が文または武を重んじていたのかが透けて見えてきて面白い。
広瀬淡窓の「休道の詩」には
柴扉暁出霜如雪(柴扉暁に出ずれば霜雪の如し)
君汲川流我拾薪(君は川流を汲め我は薪を拾わん)
とあるが、この詩は立命館大学寮歌のなかに「柴扉を排せば暁に 君は川流我は薪」として取り入れられている。
柴扉暁出霜如雪(柴扉暁に出ずれば霜雪の如し)
君汲川流我拾薪(君は川流を汲め我は薪を拾わん)
とあるが、この詩は立命館大学寮歌のなかに「柴扉を排せば暁に 君は川流我は薪」として取り入れられている。
運が良ければ猫塾長が出迎えてくれるのも嬉しい。入場無料。
猫塾長のお出まし~ |
岩尾薬舗
その昔「日本丸総本家」として財を成した岩尾薬舗。現在も薬店として、そして資料館として現役だ。木造四層三階建ての建築で、国有形文化財として登録されている。
立派な建物 |
日本丸は一子相伝で岩尾家に伝わった家伝薬。
明治20年から昭和40年まで製造販売されており、現在は材料の入手困難から作られていない。
明治20年から昭和40年まで製造販売されており、現在は材料の入手困難から作られていない。
七大博士って誰? |
薫長酒造
江戸時代から続く酒蔵で、規模が桁違いに大きい。往時の日田がよほど栄えていたことが分かる。
無料で酒蔵の見学が出来、酒造りの資料も豊富。予約不要。
煉瓦造りの煙突が格好いい |
蔵内のショップで試飲も出来るがだいきちは運転があるので泣く泣く断念。
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